2016年11月20日日曜日

HoI4: フランス AAR 第9章 法の即位、権利の復活、正義の反撃

目次

ベルリン市内に入ったフランス軍は敵の指導者の姿を求めて市中をくまなく捜索したが、指導者ヒトラーの姿はどこにもなかった。おそらくフランス軍の入城より一足早く、山奥の山荘かどこか安全な場所に避難していたのだろう。かまうものか。このままドイツの国中を占領し続ければ、いずれ避難できる場所も無くなろう。ドイツが敗北を認めるその日まで、フランス軍は進撃の足を止めないまでだ。フランス軍は70年前の仕返しとばかりにこれ見よがしにベルリン市内を行進し、ファシストからの解放を喜ぶ市民らと抱擁しあった。


東南戦線ではフランス軍は南独ミュンヘンから旧オーストリア領にかけてを制圧し、イタリアと国境を接した。イタリア軍とはこれまでアルパイン線の小競り合い以上の接触はなく、いまもまだ恐るべき戦力を保持している。フランス軍はイタリア軍を突破してフリウリ地方から南下し、地中海を挟んでの東西分断を試みるも、数と地の利で勝るイタリア軍にはかなわなかった。そう急くことはない。ドイツの脅威を排除すれば、北方戦域軍の全兵力をイタリアに向けることも可能となるのだ。フランス軍は南部ではチロルの山岳地帯で進軍を停止し、守りを固めてイタリア軍の逆侵攻を食い止めながら、他方では各地でいまだ抵抗を続けるドイツ軍の排除にとりかかる。


陸軍経験値の使い道を知らなかったこの頃
フランス軍はウィーンを占領し、旧オーストリア領をほぼ完全に制圧すると、今や枢軸国の一員であるスロヴァキアとハンガリーの二国と国境を接することとなった。だが、これらはしょせんドイツの傀儡にすぎない。フランス軍は必要以上にこれらの国へ侵攻することなく、北上してドイツの抵抗勢力を駆逐しに向かう。

このような失態は繰り返してはならない(プレイヤーに向けて)
そのころ、北方ではベルリン入城を果たした第1軍の戦車・自動車化部隊がドイツ軍に包囲され、あわや包囲殲滅の憂き目にあっていた。幸い近くの師団が救助に駆けつけ、補給線を開くことができた。この第1軍の失態に、委員会からは第1軍ジュアン将軍の更迭も含めた厳しい意見が出たが、まずベルリン入城の功績をたたえたばかりの彼を罰するには早すぎるし、なにより他に信頼できる将軍がいないため、今回は彼のこれまでの功績に免じて許される運びとなった。しかしこのような失態は二度と繰り返してはならない。第1軍には他の功績をもって償ってもらうとしよう。


第1軍は汚名返上とばかりに奮闘し、先に切り開いた補給路からさらに前進し、ドイツ軍の海軍基地シュテティンとロストックを攻撃する。シュテティンを落とせば北西の7個師団を孤立させられ、さらにロストックを落とせば彼らへの海上補給を完全に断てるというわけだ。


第1軍がロストックを落とし、さらにシュテティンを攻撃しつつ自動車化部隊が迂回して包囲を完成させている頃、東部戦線から委員会に知らせが入る。首都ブラティスラヴァを落とされたスロヴァキアでレジスタンスが一斉に蜂起し、枢軸軍のいない地域を占領すると、フランスの統治のもとに下ることを宣言したのだ。枢軸軍はこれで南北に分断され、ドイツ軍はいよいよ追い込まれた。地図の上ではいまだ広大な領土を誇っているようにみえるが、その実ドイツ本国と呼べる地域は今やケーニヒスベルクを除くとほとんどがフランスの占領下にあった。
勝利が確定したころになって申し訳程度に2個師団を送ってくるイギリス先輩(しかも見てるだけ)
第1軍はシュテティンを占領すると、北西ドイツ軍の7個師団を包囲する。これがドイツ軍の最後の組織的抵抗であった。


追いつめられた指導者ヒトラーはあくまで亡命を拒否しながらも「他民族」居住地にとどまることを嫌い、ベルリンを脱出したのちはフランス軍の手から逃れるため、ドイツ本国を出てからは南スデーテンからウィーン、ウィーンからグラーツへと彼のいう「ドイツ人の領域」を転々としていたようだが、ついにはオーストリア南の境、東チロルはドラーヴァ川の右岸にそびえたつガイルタール山の山頂付近に設けられた山荘にまで追い込まれると、そこで最後の一兵まで抵抗する構えをみせていた。だが、フランス軍の手が及ぶすんでのところで、彼はイタリア軍の山岳戦特殊部隊によって――本人の意思にかかわらず――救助されたのだった。


生きながらえたヒトラーは安全なローマまで連行されると、そこからすべてのドイツ国民にむけて、最後の一人にいたるまでその命を祖国にささげるよう呼びかけたが、すでに闘いに疲れ果てていたドイツ国民の反応は冷淡かつ痛烈であった。ドイツ政府残党が暫定首都を置くケーニヒスベルクのドイツ人民はついにファシストに抗して立ち上がると、ポーランドの人民との連帯を宣言し、もはや統治機構の体をなしていないファシスト残党――指導者亡命後は親衛隊が政権を握り、形ばかりの政府運営とポーランドおよびチェコ旧領の占領統治を一手に担っていた――を打ち倒し、新政府を樹立した。彼らは逮捕に成功した親衛隊の指導者らを人民裁判にかけると、占領下にあったポーランドの旧領回復を認めたのち、4月2日、フランスに降伏した。

次章: 東欧での闘い

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